米国戦略爆撃調査団報:広島と長崎への原爆投下の効果

そのA 長崎、人的損害、閃光火傷、その他の負傷まで


(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/docum
ents/index.php?pagenumber=15&documenti
d=65&documentdate=1946-06-19&studycollectionid=abomb&groupid=



註: 通常訳する時は自分のメモを入れながら翻訳し、あとでメモは外して仕上げるのだが、この米国戦略爆撃報告は、メモを入れたままの方が敢えて親切と考え、このままアップロードすることにした。読むのが煩雑になると言うマイナスは目をつぶることにした。(*)部分が私が自分のためにいれたメモである。もちろん読み飛ばしてもらって構わない。

註: 原文にはないタイトル中見出しを入れた。読み手の負担を少しでも軽減するためと、部分部分の主要な話題を提示するためである。原文にはなく、私が入れたタイトル・見出しは青色にしてある。

註: 米国戦略爆撃調査団―U.S. Strategic Bombing Surveyのは報告は何度か行われている。太平洋戦争に関して主要なものはこの1946年6月30日付けの「ヒロシマとナガサキ」報告と、1946年7月1日付けの「太平洋編」の報告書であろう。いずれも要約報告である。太平洋編の完全な報告書は翌1947年に完成提出されている。

註: ここに訳出した、「米国戦略爆撃調査団報告 広島と長崎への原爆の効果」は、1946年6月19日付けのものである。これはドリバー団長がトルーマン大統領に提出した下書き版でドリバーは、トルーマンにこの19日版を見せてから30日版を完成提出した。

註: 長文にわたるため分割して掲載することにした。


8月1日に受けた空襲
3.長崎
 
 長崎は九州の西部、自然が作った最良の港に面している。山勝ちの沿岸に囲まれた面積の広い入り江である。長崎市の都市部は極めて密集した様式をなしており、狭い海岸部を数マイルに渡って占め、港から展開する谷部にまで広がっている。山の尾根でわけられた2つの川があり、2つの谷を形成している。この谷に長崎市の基盤がある。
(* Wikipediaの記事から該当箇所を引用しておくと、「市の中心部を流れる川には、北部から南下し長崎港へ注ぐ浦上川と、市の北東部から長崎港へ注ぐ中島川とがある。それぞれ川沿いにわずかな平地と埋立地があり、商業地や公共施設はそこに集中する。」)

 ウラカミ川、その基底部に原爆が落ちたのだが(* the atomic bomb fell!!。いちいちひっかかる。この報告書の冒頭部にも同じいいかたがあったが、原爆は隕石みたいに自然に落ちたのではない。落としたのだからwas droppedじゃないといけない。書き手に行為者意識がないと言わざるをえない。これじゃ先に進みゃあしない。)、は港に向かって北北西から流れている。ナカシマ川は北東から流れている。山の尾根と長崎市の不規則な地形が、この地域の破壊を減ずる効果をもたらした。主要な住宅地区と商業地区はこの2つの川の基底部に混在している(intermingled)。

 大規模な工場は、長崎市の西岸にありウラカミ川まで伸びている。長崎市の大都市市域は公式には約35平方マイル(約90平方キロメートル)で郡部まで貫入していることになっているが、実際に建物が稠密なところはこうした地形に影響されて、精々4平方マイル(約10平方キロメートル)以下に過ぎない。だから人口密度は極めて高く、一連の避難の後でも1平方マイル(約2.56平方キロメートル)あたり6万5000人である。
(* 一連の避難はevacuationsだが、これは明らかに地方疎開のことをいっているのだろう。)

 天然の良港を持つにもかかわらず、また以前の世紀においては遥かに重要だったにもかかわらず、長崎の商業上の重要性はこのところ低下の傾向にある。これは長崎市が孤立した半島にあるためであり、不適切な道路網や鉄道施設による山間部を通り抜けなければならない輸送上の困難性のためである。海軍基地としてはすでに佐世保に取って代わっていた。産業面では、主として三菱の影響のもとに、次第にその重要性を高めてきた。長崎における最大4社は、三菱造船所(Mitsubishi Shipyards)、三菱電機(Mitsubishi Electrical Equipment Works)、三菱兵器工場(Mitsubishi Arms Plant *固有名詞で特定できなかった。)、三菱製鋼所(Mitsubishi Steel Works)であり、長崎市の労働人口のほとんど90%を雇用していた。行政的には一貫して県庁所在地であったにも関わらず、1941年まで精々地方で重要といった程度だった。

 8月9日の原子爆弾投下まで、長崎市はそれまで12ヶ月間の間に5回の小規模空襲を経験している。136機の編隊で合計270トンの高性能爆薬、53トンの焼夷弾、20トンの破砕性爆弾である。

 このうち8月1日の投下がもっとも効果的だった。この時三菱造船と製鋼に数発の爆弾が落とされている。損害の規模をおおざっぱに損壊した建物で比較するなら、この時は深刻な損傷を受けたか破壊された建物は住宅で276戸、産業用建物で21棟だった。原爆が落ちたときには長崎市は比較的無傷(intact)だったといえる。


火事場嵐は発生せず

 というのはもっとも破壊が集中していた地域はウラカミ谷であり、原爆による衝撃は広島に較べると全体としてみれば限定的だったからである。つけ加えれば「火事場嵐」(a fire storm)は発生しなかった。実際のところ風向が変わったことによって火災が大きくなるのを制御してしまった。しかし医療関係者や施設は深刻な打撃を受けた。長崎市が持っていた病床のうち80%以上が破壊された。また爆心から3000フィート(約900m)以内にあった医科大学は完全に壊滅した。この範囲にあった鉄筋コンクリートの建物は、残っていたとはいえ、火災で内部は全く消失した。木造建物は火災と爆風で壊滅した。この範囲での建物の消滅率(mortality rate)は75%から80%にのぼっている。医療関係者の死亡・損傷数は正確には不明であるが、広島よりましではあった。11月1日時点で120人の医師が業務に従事しており、これは投下前の登録から見ると約半分である。その他の死亡・損傷は疑いようもなく高い。長崎医科大学の850人の医学生のうち600人が死亡し、またのこりほとんど全員が負傷した。20名の教授陣のうち12人が死亡し、4人が負傷した。

 公共設備やサービスはここでもまた機能不全に陥った。2カ所の都市ガス工場は完全に破壊され、再開には数ヶ月かかったと推定される。基幹水道供給は大きな影響を受けなかったとはいえ、何千もの住宅で水道引き込みが壊れ、これに14インチ(約36cm)の主送水管に起こった8カ所の亀裂、橋にわたした別な主送水管に起こった4カ所の亀裂が拍車をかけた。電力については、破壊がもっとも激しかった地域では送電も配電もかなり破壊された。しかしほぼ即座に市内の別の場所からの供給することが出来た。

 船舶輸送はほとんど影響を受けなかった。市内電車サービスは、電力の供給が阻害されたためと車両の損傷のために停止した。長崎は尾根づたいの鉄道線の最終駅である。主要な損傷は軌道と鉄道用橋梁に止まっている。(The major damage was sustained by track and railroad bridges.)線路は爆心から5000フィートから7500フィート(約1500mから2250m)の間を断続的に走っており、その地点では焼けたがれきが線路の枕木を発火させてしまった。鉄道用橋梁は3つ架け替えられた。線路はねじ曲がり、軌道は完全に再建しなければならなかった。駅は爆風と火災で完全に壊滅していた。信号システムも深刻に損傷していた。機関車庫の損傷は軽微であった。(損傷は)主として火災である。機器類への損傷も軽微であったとは、言うものの48時間の間間引き運転をしなければならないほどには損傷を受けていた。その間緊急修理がなされ限定運転でも再開する目途をつけたのである。

 救援活動の実施は長崎県の手中にあった。一連の後かたづけ及び補修の活動を形容するなら、「先送りの」活動とでも言うべきであろう。


初めて出てくる「犠牲者」という言葉

 長崎市の補修能力は原爆のためずたずたにされていた。従って影響を受けた地域の水道供給が再開されたことを例外として、長崎市によっては道路、橋、主水道管、運輸関連諸設備など何の補修もなされなかった。長崎県が復旧活動について全責任を負い、市の全域にわたって救助隊を派遣し、被害者の救済にあたったのである。(* どうしたことか。この報告書で初めて被害者-victims-と言う言葉が出てくる。)市電会社では115人の従業員のうち生き残ったのはわずかに3人だった。そして1945年11月遅くなるまで市電は再開されなかった。原爆投下の1週間後、水道局の責任者たちは、爆撃で何もなくなった地域で生きようとしている人たちに水を供給しようと努力していた。
 
(* 長崎の復旧努力の項から明らかに書き手が替わって、書き手は深い同情を寄せている。)

 しかし水漏れは激しく、その努力を放棄しなければならなかった。従って通常は明らかに市の仕事であるような日常の業務まで、県が復旧の責任を取ったのである。長崎市地域一帯をカバーする公共工事建設グループ全体の中で、その姿を現場に現したのはわずか3人だけだった。他の生存者の居場所を特定し、(作業に参加するよう)通知するのにもう1週間は必要だった。8月10日の朝、川南造船所から派遣された警官と労働者からなる救援隊は、大村―長崎道を開通させるという、どうしてもやらなければならない(imperative)仕事に着手した。道は8000フィート(2400m)にわたって通行不能になっていたのである。(その日)煙で息も出来ないような(smouldering)火災からの非常な熱があったにもかかわらず、6.5フィート(約2m)開通した。そして8月15日までには双方通行出来るところまで道を広げることが出来たのである。

 道路を除去・清掃するにあたってトラックは1台もなかった。使えたのはシャベルと熊手だけだった。道路は次のようなものでいっぱいだった。タイル、レンガ、石、波状にしわの寄った鉄片、機械、プラスターボード、モルタルセメントの破片。火災を受けず爆風だけの影響を受けた市街地の道路は木片がまき散らされていた。廃墟と化した地域全体を通して、負傷者はみんな担架で運ばねばならなかった。数日間というもの道路はものが散乱していて、どんな自動車といえども進める状況ではなかったからである。

 主要幹線道路に通じるいくつかの市街道路の残骸を片づけ通行を確保する計画が必要とされた。しかしその計画はしばしば中断された。息の出来ない煙を出す火災からの熱と緊急救助要請があったためである。こうした残骸は熊手とシャベルによってのみ道路から取り除かれたのである。8月20日までには、仕事をほぼ終えたといっていいところまでこぎ着けた。道路は原爆によって物理的には損傷を受けなかった。また道路の表面、コンクリート製の橋の橋台なども無事だった。しかし多くの木製の橋は完全にまたは部分的に炎上していた。

 火災、家族の離散、公式書類の焼失、大量火葬などといった状況のもとで、死亡の確認や人的損傷を正確に数えることは不可能である。広島に置いてもそうであったように、季節柄を考えると死体の速やかな廃棄、大量火葬であろうと大量埋葬であろうと、爆撃ののち出来るだけ速やかに実施することが是非とも必要だった。衛生設備がまったくなきに等しかったにもかかわらず、ここでは伝染病が発生しなかった。赤痢発生率は10万分の25から10万分の125へ上昇した。1945年11月1日に実施した国勢調査では長崎市の人口は14万2700人だった。


破壊力の規模に置いては広島より大きい

 長崎は、破壊の規模において広島より大きかった。地勢の影響や原爆の落下地点のため実際に破壊された地域が狭かったにもかかわらずだ。長崎県の報告は、長崎市と住民の上に落ちた原爆について生々しく次のように描写している。

 「爆心地から半径1キロメートル以内では、もの凄い爆風と熱のため人や動物はほとんど一瞬にして死にました。家やその他の建造物はなぎ倒され、押しつぶされ、飛散しました。そして火災が発生しました。三菱製鋼所の鉄製の複雑な構造を持って強化された構造物は、ぐにゃりと折れゼリーのようにねじ曲がりました。鉄筋コンクリート製の国民学校の屋上はしわくちゃになり、大穴があきました。その力は想像を絶します。ほぼ同じ大きさの樹木ですと、すべて枝がそぎ落とされたり、あるいは根本からひっくり返ったり、あるいは幹からまっぷたつに折れました。」

 「爆心地から半径1キロメートル以上2キロメートル以内では、人も動物もその多くは即死するか、あるいは重傷を負うか、体の表面に負傷を負いました。火災があちこちに発生したので家や建物は完全に破壊されました。樹木は根こそぎにされるか、または熱のために枯れました。」

 「爆心地から半径2キロメートル以上4キロメートル以内では、人も動物も、爆風のため生じた窓ガラスの破片やその他の飛散物に苦しみました。また多くはものすごい熱のために火傷を負いました。住宅やその他の建物は半分ないし部分的に損壊を受けました。」

(* この長崎県の報告に見られる観察は冷静で科学的である。しかしその観察の結果が、同じプルトニウム爆弾を使ったアラモゴード砂漠における実験の結果とよく一致していることに改めて驚く。

1. 蒸発点 爆心から半径0.5マイル(約800m)まで。死亡率98%。
死体は行方不明または識別できないほど焼けこげる。
行方不明とはこの場合すなわち蒸発である。
2. 全破壊帯 爆心から半径1マイル(約1.6Km)まで。
死亡率90%。全ての建物が破壊。
3. 過酷な爆風損害地域 半径1.75マイル(約2.8Km)まで。
死亡率65%・負傷率30%。
橋・道路損壊。川の流れは逆流。
4. 過酷な熱損害地域 半径2.5マイル(約4Km)まで。
死亡率50%・負傷率50%。
死亡はほとんど火災のための酸欠死。
5. 過酷な火災と風による被害地域 半径3マイル(約4.8Km)まで。
死亡率15%・負傷率50%。
もし生きていても二度三度と火傷を負う。

参考資料:http://www.inaco.co.jp/isaac/back/006/006.htm )
 


長崎の特徴は爆風効果

 広島では、廃墟となった地域一帯に一様に広がった大火災に注目が集まったが、長崎に置いてはハリケーンの廃墟を思わせるような爆風効果がもっとも特徴的だった。箱の両側をストーブの爆風がなめたような爆風が鉄筋コンクリートの建物を襲った。爆心地から1マイル(約1.6km)以上にある鉄製の工場の倉庫は爆発のために反りあがり、むき出しの鉄骨をさらした。爆風にたてたたとえば電話線のための柱は、爆風の方向に向かって反った。丘の表面では、木々がかなりの地域にわたって爆風でなぎ倒された。全体的な大火災は発生しなかったとはいうものの、諸所で発生した火災がコンクリート製の建物に損壊をもたらした。証拠は主要な火災は、広島より頻発したことを示している。

 丘が多くそれで守られたため、居住建物の半分以上は深刻な損壊から免れた。8月1日現在長崎市には52000戸の住居用建物があった。うち14146戸あるいは27.2%が完全に破壊された。(日本側の算出による)。(11494戸が焼失)。5441戸あるいは10,5%が半焼または半壊。残りの建物は表面的な損害または比較的軽い損害。長崎市内の建物密集地域の558戸の非住居用建物のうち、調査団の調査では、ほぼ使用可能な床面積のうち60%までが破壊されたか構造的な損傷を受けた。損傷を受けなかったのは12%である。のこりは表面的な損害または比較的軽い損害だった。


生産工場への影響は長崎が上
 さらに、建物の生存率が高かったというのも、広島に較べて長崎の特徴だった。逆に工場の損害は長崎が大きかった。長崎では、主要な産業の中で、深刻な損害から免れ得たのは三菱造船所だけだった。三菱造船所と共に長崎の全工業生産の90%を占める他の3社は、深刻な損害を受けた。

 三菱兵器工場と三菱製鋼は主要な地域で損害を受けたし、兵器工場の資産価値のうち58%が、また製鋼の場合は78%までが破壊された。三菱電機は主要破壊地域の周辺にあったが、それでも建物の10%が破壊された。

 佐世保海軍基地地区の司令官級の報告から2,3引用すれば、彼は産業配置構造に損害を受けた、と言う見方を示した上で、三菱兵器工場の2つの工場について次のように報告している。

  「トンネル作業場及び半地下作業場を除いて、大橋工場及び森町工場は完全に爆弾で破壊された。これら工場の鉄筋コンクリート製の建物はその内部も極めて深刻な損傷を受けた。天井は崩壊し、すべての備品・調度類は破壊された。機器類も損傷を受けた。大橋工場の鍛造品作業場は火災のために破壊され、建物は構造から壊れた。森町工場は火災のためほとんど損壊した。両方の工場で損傷した器械類は60%にのぼる。大橋工場では80−90%の機械類は将来使用できる見込みだが、森町工場では40−50%に過ぎない。」


謎残る長崎投下の理由

 また三菱製鋼所に関しては次のように報告している。

 「ここの工場建築物(北明かり窓のある鉄製構造の建物)は、鉄板が吹き飛ばされたために屋根と壁に相当大きな損傷を受けた。構造物のフレームは二つに折れるか、ねじ曲がるか、倒壊した。また幾棟かは火災に包まれた。現在の状況では機械類の使用再開は困難な状況にある。しかし修理すれば70%までは使えるようになるだろう。」

 全体としていえば、(高性能爆弾や焼夷弾の時と同じように)、建物そのものに受けた損傷より内部の機械やその他の収納物が受けた損傷の方が小さい。さらにくわえていえば、原爆による空気の爆発は機械類やその他の建物内部の格納物に対してより間接的に影響したであろう。爆風で(直接)吹き飛んだ機器類もあったであろうが、ほとんどの深刻な損傷は、損壊した建物のがれきとか、建物全体の倒壊などの大きな動き、あるいは建物の炎上などに起因している。このように機械の損傷はその種類にして程度にしても、建物自体の建築構造に依っているのである。木造構造の建物では、95%の機械類が深刻な損傷を受けているのに対して、鉄筋コンクリートの建物や鉄骨製の建物では、機械類はその1/3から1/4が深刻に影響する損傷をうけている(に止まる。)容易に予測がつくように、木の角材構造の作業所では機械類は火災によって損傷を受けた。(爆心地から7000フィート以内−2100m以内−では事実上木造作業所はすべて全滅した。)木造構造以外の建物では(機械類の)損傷は一部にとどまる。がれきによる損傷は、ごく一部の鉄筋コンクリート製の建物で、主たる損傷の原因だった。そういうところでは天井や壁が崩壊した。

 原材料の供給不足のため、これら4つの三菱系工場は生産能力のほんの一部の部分にまで生産量を減らした。原材料の供給が仮に普通であり、また戦争が継続するとして、これらの4つの工場の生産能力の回復状況はどうだったろうかと考えてみると、恐らくは極めてゆっくりとしか回復しなかったろう。三菱造船所は原爆よりも8月1日の空襲の方が深刻な打撃を与えていたのだが、生産応力の80%にまで回復するのに恐らくは3、4ヶ月かかったことだろう。三菱製鋼所は有意味な生産をするまでに恐らく1年かかったろう。三菱電機は、減産体制で生産を開始するのに2ヶ月はかかったろうし、もとの生産に戻るには6ヶ月かかったろう。三菱兵器工場は以前の生産の2/3のレベルに戻るのに恐らく15ヶ月かかったろう。


(* 長崎の項はこれで終了するが、読み通してみてとっさに感じる疑問は、なぜ長崎に原爆を落とさなければならなかったのか、と言う疑問である。まず政治的には全く意味がない。というのは、長崎原爆投下が対日戦争終結に与えた影響はゼロだからである。トルーマン政権は、日本の無条件降伏はソ連の参戦次第と考えていたし、また降伏の決め手になるのは天皇制の維持(国体護持)を認めるかどうかにかかっている、と考えていた。ソ連が参戦しその上天皇制の維持を認めれば日本は降伏すると見ていた。また、陸軍長官スティムソンや国務長官代行のグルーなどの意見、「天皇制を維持した方が日本占領はやりやすい。」という見方もほぼトルーマン政権の総意になりつつあった。これをはっきりいえなかったのは、天皇戦犯論が他の連合国、ソ連、中国、多くの英連邦諸国に根強く、これを明文化しない方がかえって日本降伏に導きやすいと考えたからに過ぎない。

 一方日本側はどうだったかというと、まさにトルーマン政権の読み通りの動きを見せるのである。

 ポツダム宣言受諾の方向で、最高戦争指導会議とこれに引き続いて臨時閣議が開かれたのは8月9日、ソ連参戦の報をうけた直後である。この臨時閣議が再び最高戦争指導会議に切り替えられ延々と同じ議論が繰り返された。すなわち連合国側は「国体護持」を認めるのか認めないのかと言う点である。この会議の最中に長崎原爆投下の報がはいるが、会議に大きな影響は与えず、同じ議論が蒸し返された。トルーマン政権は天皇制維持を明文化するととても他の連合国の合意は得られないと見て取って、スティムソンの準備したポツダム宣言から天皇制維持をにおわす文言を削除した。そしてついに9日夜半、「日本政府はポツダム宣言が陛下の国家統治の大権を変更するがごときいかなる要求をも含まざるものとの了解のもとにポツダム宣言を受諾するする用意がある。」との声明文を「米英支ソ」4カ国に中立国を通じて送付することを決定するのである。いわば天皇政府とトルーマン政権は、この天皇制維持問題を「あうんの呼吸」で処理したのである。そしてこれが、日本の「無条件降伏」の決定打になるのである。もちろんこれは中立国を通じての意思表示であるから、法的には8月14日の御前会議で正式回答文を作成し、これを連合国側に正式に通知しなければならなかった。しかし実質的には8月9日の最高戦争指導会議で決着がついていたのである。正式通知ではないが、トルーマン政権もこの8月9日の日本政府の決定を実質的降伏受諾と受け止めている。この間のトルーマン政権内部の意志決定は、8月10日付けのスティムソン日記から読みとることが出来る。「日本降伏の第一報と天皇問題 スティムソン日記1945年 8月10日」を参照のこと。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450810.htm

 つまり、トルーマン政権も天皇政府も長崎への原爆投下によって、戦争終結が早められたとはほとんど考えていなかったのだ。

 それでは、長崎への原爆投下は何故行われたのか、という問題が浮上してくる。)




「正確な人的損害数は実は分からない」
B.全体的効果
    1.人的損害
 原爆によるもっとも決定的な結果は、その人的損害の大きさである。死者や負傷者の正確な数は、爆発後の混乱のため、知ることは不可能であろう。崩れ落ちる建物の中で焼け死んだ人は数えられないし、復興へ向けての第1週目に行われた大量火葬の一つに遺棄された人、町から逃げ出そうとしていた人のうち何人が死に、あるいは何人が生還したかについて記録は残っていない。(投下時)何人が実際(広島や長崎に)いたかについても正確な数は分かっていない。2つの港町(* 広島と長崎のこと)は、常時焼夷弾攻撃の脅威にさらされており、政府による公的な避難計画が存在した。(* 疎開政策のことを指している。)市から外に逃げ出すもの、政府の計画に従って疎開したものの数は知られていないのである。こうした不確かな状況で、人的損害の推定を出すとすれば、広島に置いては10万人から18万人、長崎に置いては5万人から10万人であろう。
(* よくいわれるように原爆による犠牲者数はアメリカと日本で大きな違いがある。どちらが正しいかなどという議論はおよそ議論に値しない。犠牲者を一人一人特定していった日本側の記録がより実態に近いものに間違いはない。実際、米国戦略爆撃調査団報告の記述を見てもわかるように自分の推定に自信があったわけではない。)

 調査団の信ずるところに依れば、広島では7万人から8万人が死亡し、ほぼ同数の負傷者がでた。長崎ではほぼ3万5000人以上が死亡し、負傷者は死亡者を若干上回ったというのがもっとも理にかなった推定( the most plausible estimate)である。

 直接の人的損害は高性能爆弾や焼夷弾によるそれと大きな違いはない。際だった違いは、放射線による影響が存在したと言うことである。原爆の投下後1週間立ってみると(放射線による影響は)間違えようのないものとなった。

(* この報告は1946年の6月である。わずか9ヶ月前、マンハッタン計画の責任者レスリー・グローブズは、ニューヨーク・タイムズの科学記者、ウィリアム・L・ローレンスなど当時アメリカの「一流ジャーナリスト」を使って、「科学的に見て原爆による放射線の影響はありえない。」とする大キャンペーンを張った。世論誘導のために一大プロパガンダを流したわけだ。当然意図的な虚偽を含んでいる。原爆をめぐる一連の記事でローレンスはピューリッツア賞も受けている。ローレンスのピューリッツア賞は取り消されていない。アメリカの「一流ジャーナリズム」は、原爆・核兵器に関するプロバガンダ報道を今に至るも清算できていない。むしろ「二流・三流ジャーナリズム」の方が正しく原爆・核兵器問題をとらえ正確な報道をしている。アメリカの大衆が原爆・核兵器について正しい知識と認識を今にいたるも持ち得ないでいるのはこのためである。また世界的に見ても、アメリカや日本などの「先進国」のジャーナリズムよりも「後進国」のジャーナリズムの方が、広島・長崎に関する原爆投下について正しい評価を行っている。たとえばトルコの日刊紙イェニ・サファク紙は、2007年2月23日付けの「アメリカはイランを攻撃できない」とする解説記事の中で、「アメリカは、大半が地下に建設されたイランの核施設を爆撃するためには、核兵器を使う以外に方法がないと考えている。イランに対し核兵器を使った場合には、1945年の広島、長崎以来初めての核兵器の使用ということになる。広島と長崎の事件によって着せられた歴史的汚名をいまだに払拭できないでいるアメリカでは、核兵器の使用が引き起こす自然的、人文的な大災害のもたらす苦難のため、軍と政府の間にもこの問題について統一した見解はない。」―東京外語大学のアラブ系新聞翻訳サービス http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/src/read.php?ID=10248 ―と述べている。)

  しかしながら、(投下の)衝撃があった時には、死亡や負傷の主たる原因は閃光火傷(Flash Burns)だった。そして2番目には爆風の影響、落下するがれき、そして燃え上がる建物から受ける火傷だった。いろいろな負傷形態の中でどの負傷が相対的に重要だったかを示す明確な記録はない。特にいろんな負傷を何度となく受けて死んでいく人に関して、何が主要な負傷だったかを明確にはできない。理屈から言えば、いくつかの負傷のうち、そのどの一つを取ってみても、致命傷だったといえるわけだから。広島県の保健部は、火傷(閃光によるもの及び火炎によるもの)による死を60%、落下するがれきによるもの30%、のこり10%がその他によるとしている。最初の人的損害のうち最低限50%は火傷によるものとするのが全体的に見て同意できることだろう。

 後に死亡したものの中では、放射線の影響による死亡の比率が上昇する。


初めて注目される放射線の影響
 放射線の影響の深刻さは、半径3000フィート(約900m以内)で直接被爆しかつ生存しているものを追跡していくと95%までが放射線障害で苦しんでいるという事実によって、はっきりするかも知れない。スタッフォード・ワレン大佐は上院原子力エネルギー委員会での証言で、2つの市(広島と長崎)における死亡者全体の7−8%が放射線障害によるものと推定した。しかしこの地域で何回か実施した医学的調査からするとこの推定は低すぎるように感じられる。総体的にいって、放射線障害による死亡は全体の15−20%をくだらないと感じられる。
 
(* 広島平和記念資料館の学芸担当によると、原爆による死亡をどれか単一の要因で分類するのは非常に困難ということで現在はそのような分類はしていない、という。)

  さらにつけ加えれば、死者とほぼ同数の(放射線を浴びている)生存者が存在するということ、またその他にまだ数えられていない数千にも及ぶ生存者が存在するだろうこと、またその他にガンマ線を浴びたものの、はっきりした症状が出ていないものの存在もある。

 もっとも理にかなった主たる死亡原因の推定は次の通りである。
   閃光火傷 20−30%
   その他の原因 50−60%
   放射線病 15−20%

 もしそれぞれの原因別のグループを作って人的損害の性質を調べれば、影響の親疎をはっきりさせられるだろう。


一瞬にして生起するフラッシュ・バーン

閃光火傷(Flash Burns)

 爆発による閃光は、ほんの一瞬であるが、放射熱は光速で拡散する。従って閃光火傷は爆発とほぼ同時に生起する。眼球に火傷を負った人比較的少ないのは、閃光の後に放射熱が発生したとか最高熱に達するのに時間を要したとかいうことではない。単に人間の通常の皮膚よりも眼球が熱に対して抵抗力のある構造だと言うことと爆心地に近いところでは、眼球の奥まった構造が頭上での爆発から眼球を守ったと言うに過ぎない。熱のピークはほんの一瞬なのである。

 広島・長崎両市の生存者は、野外にいて爆発の下にいた人は皮膚が濃い茶色または真っ黒に黒こげになり、数分あるいは数時間後には死んだと述べている。

 生存者を見ても、その皮膚の火傷した部位は、火傷が爆発とほぼ同時に起こったことを示している。最初赤くなりそして数分あるいは数時間後には、火傷の程度によるが、熱による火傷の兆候を見せている。実際治療に当たった日本側の医師によれば、直接放射熱を浴びない火傷は特別な治療の方法をこうじなくても速やかに自然治癒したという。アメリカ側の医学観察者によれば、傷ついた皮下組織が盛り上がる傾向が見られただけだと指摘している。これは栄養不良の結果と二次的放射熱を浴びたことに起因する複雑な自然治癒であろうという。またいくつかの例では、筋肉収縮固定状態(contractures)のまま治癒したケースもある。膝とか肘とかのある部位の間接を動かしにくくなって治癒したケースもある。多くの例ではこうした第一次的な比較的軽度なやけどは、患者の中で放線線による影響が顕在化する前に治癒している。

 閃光波が極短期だったことと、ほとんどすべての物体が遮蔽物―木の葉、衣服、建物などなどーとなり得たことで、多くの極めて興味深い(放射熱からの)防護例が見られた。放射熱は光同様直進する。だから直接むきだしの部位だけが放射熱に被爆する。爆発に対して相対している人の背中は明らかに火傷を見せているのに対して、その背中のくぼみは火傷から免れた。

 建物や家の中にいた人はもし窓に向かって被爆した時にのみ直接火傷を負っている。もっとも特徴的なケースは窓に向かって書き物をしていた人のケースである。両手はひどい火傷を負ったのに対して、顔や首筋はほんの軽い火傷で済んだ。窓から飛び込んでくる放射熱に対する角度の問題である。

 閃光火傷は大きく体の露出部位に限定される。しかししばしば、衣類の厚さによっても火傷が異なって発生する。一般的にいって衣類が厚ければ、閃光火傷に対してより完全な防護となりうる。ある婦人は肩にT型の形を残して閃光火傷を負った。T型の部分は着ている衣服のつなぎ目にあたり、そこだけが厚かったのである。他の多くの人は単衣の着物を通して火傷を負ったが、それでも着物の折り返し部分の下は無傷だったかまたは極軽傷で済んだ。別な例をあげれば、肌にぴったりした衣服の部分では閃光火傷が見られたが、ゆったり着た衣服の下は火傷が見られなかった。最後に白色や明るい色は熱を反射し一定の保護となりうる。黒や暗い色はより火傷になりやすい。


がれきによる人的被害が大きい

その他の負傷

 爆発の中心に近いところではいろいろな要素が絡まり合っており、爆風による影響だけを取り出して論ずるのは困難である。爆発のほぼ直下に置いてすら、発生した空気爆発のために人々は数百フィート(数十メートル)吹き飛ばされている。本当の爆風による影響がほとんど起こりえないことを理解するのはさしてむつかしくない。影響の大きいゾーンの周辺地域のみが平行して爆風の影響が見られ、人々が建物の方へ投げ出されたりした。周辺部では爆風の強さは相当減じられている。飛んでくるがれきに脚や腕がとばされた、と言うケースも比較的少ない。大きな空気圧もほとんどなかったということも、鼓膜を破った人がほとんどいなかったことにあらわれている。広島で8月11日及び12日の両日ある日本人(医師)が診察した106人の被害者(victims)のうち3人だけが鼓膜に破れが見られた。また10月、長崎の近くの大村病院で調査したところによれば、92件のうち鼓膜に破れがあったのは2件だけだった。衝撃波で気圧が高くなったと言う報告があったのは長崎だけである。生存者の報告では死者のうち何人かは目が飛び出し舌を出した状況だったという。まるで溺死者のようだったという。連合国側の調査員は慎重にチェックした結果こうした話は直接爆風の証拠としては扱わないことにした。通常の爆風による影響は内出血と内部圧搾である。こうした外部的兆候は爆風によるものというよりがれきなどによる負傷であることを示唆している。

 落ちてきたり、とんできたりしたがれきによる負傷はこれよりはるかに数多い。当然のことだが爆発の中心になるほどその数は多くなる。建物の崩壊は突然である。したがって何千もの人ががれきの下に埋まり釘付けになった。多くは自力で脱出したり、助け出されたりしたが、また同時に怪我をして力尽きたり、炎にまかれて死んでいった人たちも相当な数に上る。薄っぺらい日本の住宅の構造は、崩壊の危険と隣り合わせである。確かに壁や仕切は軽いのだが、家屋は重い天井の枠組みと思い瓦を屋根に乗せている。ガラス窓からの飛散してくるガラス片も大きな人的損害を引き起こした、爆心地から1万5000フィート(約4500m)までこの損傷が見られた。

 広島でも長崎でも、二次的火災による火傷者は生存者の中で数は多くなかった。しかしこれは多くの人たちが建物の火災で死んでしまったからだと思われる。目撃証言はこの見方を裏付けている。すなわち多くの場所でこうした火災が発生し、すぐに焼け死ぬかあるいは重度の火傷のために自力で脱出できず死ぬ人が多かったという。しかしながら通りに置いても、互いに関連なく、あるいは熱のために、あるいは東京やドイツのハンブルグでもそうであったように一酸化炭素のために力つきて死んだ。閃光波のために衣服に火がついて火傷を負う人もいた。しかしそうしたケースではほとんどの場合、大火傷を肌に負う前に自力で火を消すことが出来た。



(以下そのBへ続く)